かみの毛くるくるまちぼうけ

とある自治体の新米広報担当。四方山話。たまにライブの告知。

CD制作そして偶然とは何か

高校時代、進路指導の時間、毎度のように調査票の志望校もしくは学部の欄を書き変えていたら、担任の先生かだれかに「あんたは何になりたいの」と問われた。

「文筆家ですかね

と、文筆家のなんたるかもわからないままそう答えたけれど、ブログの更新もままならない以上あまり向いてはいなさそうだ。

そうとわかれば気負う必要もなし。考えたことや報告、読んだ漫画や観た映画の感想はもちろん、ビジネスモデルの提案や政策批判、ダイエットのレポートでも試合(合コン)の結果でも隣の建物の色がだんだん青くなっていることでも何でも、書きたいことがあれば書いてみること。

なんでも続けてみれば少しは説得力を持つようになる。その度合の変化の観察も面白そう。

 

おとといの夜は先月レコーディングした音源のリリースまでのプロセスや、パッケージング、媒体といった具体的な部分を、つくば市天久保3丁目のFlowで話し合った。といっても彼から繰り出されるアイデアに圧倒されっぱなしで相槌を打つのが精いっぱいだったというのが実のところ。

ただその中でジャケットのイメージの話になった時に、こんな感じ、といって示されたのがJakob Broの"December Song"のアートワークだったのには驚いた。

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Vinterhymne (December Song, 2013) - YouTube

そのことを直接言った覚えはないはずなのだけれどもそれは昨年の冬くらいからフェイバリットであり続けている作品で、厳冬の暖炉のような暖かさ、その暖炉の前で母が編んだ手編みのマフラーのようなやわらかさが、夏を迎えようとしている今でも嬉しく感じられる。ここにある感触を紡ぎだせるギタリストでいたい。

すこし話が逸れたけど、こんなことにも「"偶然"そんなことがあったんだ」と話の(そしてブログの)ネタにしたがるくらいには"偶然の一致"みたいな出来事に関心を持っている。

より正確には、「"偶然の出来事"などに見いだされうるこれから自分の身辺に起きる事の予兆」って本当にあるのかな、と。でも、そういう意味ではさっきの"December Song"は採用すべきものとしてほぼ"直感的"に捉えられたので、「こんな感じでいきましょう」と答えた。

たぶん"偶然"や"予兆"や"直感"、他にも繰り返される"夢のお告げ"なんかは、とても密接に関連していることなんだと思うし、それこそ誰かの手によって表現されるべきものとして"降ってきたもの"なんだろう。

そういう"声"は聞き逃さずメモしておかないと、すぐ忘れてしまうからね。今までどんな大発見を素通りしてきたかを思うと噛み締める手拭いが足りない。

(※"○○"の語句は本稿でほぼ同義語として用いています。)

 

隣の林のキジバトが「ホッホー、ホホーホー、ホッホー、ホホーホー、ホ・・・」とまーた途中で鳴くのをやめたのが「もうそのへんにしといたら」と受け取れたので寝る。おやすみ。